うたかたバックヤード

オリジナルTSF小説(主に憑依)と雑記(主に創作関連)を掲載しています。18歳未満の方の閲覧は御遠慮ください。リンクフリーです。

オリジナルTSF小説(主に憑依)と雑記(主に創作関連)を掲載しています。18歳未満の方の閲覧は御遠慮ください。リンクフリーです。

「係長、これお願いします」

 柊太郎(ひいらぎ たろう)のデスクへ、彼の部下である若い男性社員が書類を置いて去っていく。
 太郎はその書類をじっと見つめた後、更に手に取ってしげしげと眺める。ふんふんなるほどなるほどと訳知り顔で頷いたりしているが、何処か上っ面で真剣味の感じられない所作だ。
 そうしていると、同じく彼の部下で隣のデスクに座る女性社員の藤森絵梨が彼にそっとメモを差し出した。
 そこには、今彼が受け取った書類がどういうもので、そして彼がこれからそれをどう処理したら良いのかが書き記されている。

「あ、藤森君! ちょっとお客さんにお茶出してあげて」

 不意に飛んできた課長の言葉。絵梨は完全に虚を突かれた様子で、自分が呼ばれたのだと気付いていなかった。
 ワンテンポ遅れてから、指示を受けたのが自分だと認識したようで、あたふたとしながら給湯室へと走って行く。

「えっと、お茶……、お茶ってどれだ」

 給湯室に入ってからも、彼女は狼狽えていた。ここまで来たは良いものの、コップはどれを使うのか、茶葉は何処にあるのか。そういう基本的なことがわからず、立ち尽くしてしまっていた。

「お客さん用のお茶はね、これとこれ」

 後ろから付いてきていた太郎が助言してくれる。彼は慣れた様子でさっさと準備をすると、これを持って行ってと絵梨にお茶と茶菓子の乗ったお盆を差し出した。それは彼女にとって、地獄に仏と言えた。
 助かると、短くお礼を言って絵梨はお茶出しのミッションへと望む。緊張した面持ちで、しかし真摯に自らの仕事を完遂しようという真面目な気概が見て取れる。
 しばらくして応接室から帰って来るが、しかしまったくもって彼女は疲れ果てたような表情をしていた。うんざりしたと顔に書いてある。給湯室に迎え入れて、お疲れと労う太郎に大きなため息をついた。

「どっと疲れた。冷静になると、ただのお茶出しで気を張り過ぎたな」

「普段やってないことやるとね。そうもなるよ」

「ていうかあのジジイ気持ち悪かったぁ。ずっと露骨にこっちをガン見して来るんだもん。いくら美人でプロポーション最高だからって、せめてこっちに気付かれない位には遠慮しろよ」

 そう言って絵梨は、OL然とした制服を纏う自分の身体を誇るかのようにすっと撫でて見せる。挑発的な笑み。背筋を伸ばし、胸を張って見せつける。
 実際タイトスカートとタイツを纏う脚は細く、すらりとして長い。胸の膨らみもブラウスとベストを押し上げてその豊満さを主張する。肌も白く張りがあるし、肩まであるロングヘアも艶があって綺麗。ドヤ顔する資格があると誰もが認めざるを得ない位には美人だ。
 24歳の完成した女体の魅力。それを惜しげもなく振りまくかのように、煽情的なポーズを色々取って見せる。両脇を上げたり、二の腕で胸を挟み込んでみたり、振り向きざまに指を咥えてみたり。
 そんな彼女を、太郎はじっと見つめていた。やがてバツが悪そうに目を逸らすと、少しもじもじとしながら嗜めるように言う。

「やめなよ」

「どうしたの? もしかして勃っちゃった? まあ、その気持ちはよく分かる」

 ケラケラと楽しげに笑いながら絵梨が茶化すと?太郎は赤面しながらムッとした。ただそれ以上何も言わないことが、言外に彼女の言葉が事実だと肯定していた。

「コピー用紙、コピー用紙っと」

 その時、そんな呟きが聞こえて来た。別の男性社員が給湯室にいそいそと入って来る。太郎と絵梨は反射的にお互い視線を逸らして、さもそれぞれ別々の用事でたまたまここにいるだけですよとばかりに素知らぬ顔をし始める。
 その社員は2人に特段何の興味も示すことはなかった。ただ、戸棚の奥にあった新品のコピー用紙の束を抱えると、さっさとオフィスの方へと戻って行く。それを見送って、2人はふっと息をつく。
 太郎と絵梨は付き合っていて、現在同棲もしている。だがそれはまだ職場では明らかにしていない。ただの上司部下の関係を装っている。だから社内で2人が仕事の話以外の会話をすることは稀ではある。

「しかしまあ、こっちのチームには関係ないお客さんなのにお茶出しやらされるのもどうかと思うな。女だと思いやがって。それにそれ以外にも雑用ばっかり押し付けられ過ぎだよ」

 鼻を鳴らして絵梨は言う。呆れたと言わんばかりに腕を組んでいる。普段は社内で雑談はしないことにしているが、これは半分仕事の話という感覚で言っていた。

「でも性別以前にこのオフィスでは1番年下だし、雑用やらされるのも仕方ないよ」

「雑用なんかいくらやってもキャリアにならない」

「責任が伴わない仕事だから、気楽で良いじゃない」

 そんな消極的な発想をする太郎を、絵梨は一笑に付した。

「時代錯誤的だ。この会社結構古臭い体質なとこあるよな。何故か女子だけ制服着用だし」

「デザイン可愛いから嫌いじゃないけど」

「係長はセクハラ発言するし」

「あら、これは失礼」

「そもそも役員に女性がいないのがおかしいよ。それ以前に管理職にも女性はほぼいない。今は令和だぞ。良いのかそんなことでと思うけど」

 そこまで高説を述べて、はたと絵梨は何かに気付いたような表情をした。まじまじと、自分の手や身体を見下ろしている。そして、良いことを思いついたばかりに二ッと口角を上げた。

「そうだ、自分で出世すれば解決じゃん。まず管理職。ゆくゆくは役員まで。時代遅れな企業風土を女性の立場で改革してやるぜ」

 絵梨のそんな突然の思い付きに、太郎は面食らう。思わずぇ゙なんてカエルが潰れたみたいな声が出てしまう。

「いや、むしろ専業主婦希望なんだけど。出世なんか要らないよ」

「え、そうだったの? まあそれでも良いけど。いや、良くない。やっぱ今の時代女性もバリバリキャリア積んでいかないと。燃えてきたな。ガンガン仕事こなしていくぞ」

 決意に燃える絵梨。太郎は彼女の瞳に、圧倒的な熱量とワーカーホリック的な淀みを見て辟易とした。

「えい」


 その掛け声と共に、太郎は絵梨にキスをした。カップルであれば日常的なスキンシップかもしれないが、この2人にとってはただの愛情表現ではない。
 彼らにはキスをするとお互いの精神と身体が入れ替わるという不思議な特殊能力がある。36時間に1回しか使えず、再度能力を使わないない限り元に戻れないという制約があるものの、それ以外のデメリットは特にないので、2人はよく入れ替わって遊んでいる。
 実際、唇が離れた後の2人の表情は、ほんの一瞬前とは全く違っていた。げんなりとしていた太郎はきょとんとした顔をしているし、やる気に満ち溢れていた絵梨は澄ました顔をしている。
 まさか職場で入れ替わりを仕掛けられるとは思っていなかった太郎は、急にどうしたのと狼狽えていた。対する絵梨は、そんな彼を尻目に給湯室を後にしようとする。

「出世したくないんで、これからミス出しまくって課長からの評価を下げるから。尻ぬぐいよろしくね。係長様」

「え!? いや、ちょっとちょっと」

 去り際の絵梨の宣言に、ただ太郎は狼狽しながらついていくことしか出来ない。
 これはそんな何気ない、でもとっても変な、二人の日常の一幕。



「ただいま……」

 くたびれ切った様子で、藤森絵梨はアパートに帰ってきた。ダイニングのテーブルに用意された豪華な夕飯も、彼女を元気付けるには足りないようだ。そのままふらふらとソファに座り込んでしまう。
 そんな彼女を、エプロン姿の男が迎える。彼は柊太郎(ひいらぎ たろう)という。2人は同棲中の恋人同士。太郎の方が4歳年上で28歳になる。そして、同じ会社の上司部下の関係でもある。

「今日は外回りから直帰して時間があったから、手の込んだご飯作ったよ。それにしても遅かったね」

「期日のヤバい案件が溜まってたから片付けておいた。係長様の手を煩わせるわけにはいきませんから」

 冗談めかして絵梨が言うのは、まさしくその係長様というのが他ならぬ柊太郎その人の事だからだ。太郎の方も、ご苦労であったなと軽口で答える。

「そういえば、明日の土曜日は優子に映画に誘われてたじゃん?」

「ん? ふん」

 太郎にそう問われて、絵梨は逡巡したような表情を浮かべる。優子というのは絵梨の大学時代からの友人だ。
 ただ、今週は仕事が忙しかったせいか記憶から飛んでしまっていたようで、彼女は曖昧な返事しか出来なかった。

「えい」

 その掛け声と共に、太郎は絵梨にキスをした。カップルであれば日常的なスキンシップかもしれないが、この2人にとってはただの愛情表現ではない。
 彼らにはキスをするとお互いの精神と身体が入れ替わるという不思議な特殊能力がある。36時間に1回しか使えないという制約があるものの、それ以外のデメリットは特にないので、2人はこうしてよく入れ替わって遊んでいる。
 実際、急なことで驚いていたような顔をしていた絵梨は、やがて悪戯っぽく笑うと、先ほど太郎の口から出ていた話題を引き継いで話し始めた。

「面白そうな映画だと思ってたから一緒に見に行って来ようかなって。そっちは興味なさそうだったし、良いでしょ? と思ったけど、痛たた……」

 調子の良いことを言っていた絵梨だったが、途中から次第に表情は曇っていった。そして最後には、辛そうにソファへともたれかかってしまう。

「よっしゃ、解放された! ああ、やっぱ男の身体は楽で良いなあ」

 一方の太郎は晴れやかにガッツポーズを決めていた。痛恨といった面持ちの絵梨とは対照的だ。

「しまったぁ、生理がそろそろだったんだった。忘れてた……。ねえ、もう1回入れ替わらない?」

「無理無理、駄目駄目。最近ずっとこっちが生理引き受けてたんだから、たまにはそっちもやらないと」

「オレの身体を返せえ」

「残念でした。今はお前の身体じゃありません」

「オレにもちんちんくれよぉ。そっちの方が良いよぉ」

「下品だぞ」

「小太郎、こっちに来てくれ」

「チンコに名前付けるのヤメロ」

 しばらく未練がましく嘆いていた絵梨だったが、元はと言えば入れ替わりを仕掛けた側で自業自得だという事実からは逃れようもない。観念すると共に、押し寄せる疲労や痛みにうめき声を上げていた。
 そんな絵梨の様子を見て、太郎はそっと彼女に寄り添った。

「こうなるとは思ってなかったとはいえ、ちょっとその身体には無理させ過ぎちゃったからな。もう休みなよ。後の片づけはやっとくから」

「くっそー、せっかく色々料理作ったのにー」

「冷蔵庫入れとくから。しばらくは日持ちするだろうさ」

 これはそんな何気ない、でもとっても変な、二人の日常の一幕。
 

最初にnatsumiがpixivに作品を投稿したのは2022年2月のことで、ちょうど2年が経ちました。
この間毎月投稿を続けてきましたが、それが出来たのはひとえに作品を読んでくださった方々のお陰だと思います。ありがとうございました。

この節目に、以前から考えていた事ではありますが、活動形態を少し見直したいと思います。
具体的には、毎月投稿は休止します。

元々期限が定まらないと本腰が入らない性格であることから、定期投稿をするべきと考えて始めたことでした。そこで一定のクオリティを維持できて、読者に忘れられなさそうで、かつ追いかけてもらっても苦にならない位のペースということで月刊を落とし所にしていました。

決められた期間内に仕上げるというのは重要な能力ですし、良い経験ができたと思います。
ただ、粗製濫造はするべきではない。また期限を守ることが目的になるべきでもありません。

最近の生活の作業時間の少なさも相まって、自分のやりたいことからズレてしまっているという感覚があったことから、このたびの判断となりました。

あくまで不定期になるだけで執筆は続けていきますし、また休止ということで、やがて毎月投稿を再開することもあるだろうと思います。pixiv以外の公開先の模索もしているところですので、少し考える時間を取ろうということと受け止めていただければと思います。

以上、作品投稿の形態は変わりますが、今後も変わらずお付き合いいただければ幸いです。



>>前話 >>(1)-1

 聖女がウェスターのもとを訪ねて来た日の夜だった。王都が燃えている。
 毒餉鳥どくげちょうベドリス。一対の翼と鳥の頭を持つその人型の魔物が、王都上空を埋め尽くさんばかりの数で旋回している。本来群れる習性のないはずの魔物であるという点も、その光景の異様さを際立たせる。まさしくこれこそが滅亡の日なのだと誰もが察するであろう。
 王都は中央の小高い山の頂に王宮がそびえ、それを囲むように山肌と裾野に街が広がっている。山肌の街からは攻撃魔法と障壁魔法が展開され、裾野の街からは対空機銃掃射がなされている。夜だというのに酷く明るい。
 そんな様子を遠巻きに眺めながら、ウェスターは荷物をまとめていた。当初の予定通りさっさと国外に退避する算段だ。

「あー、だるっ」

 手付きは緩慢。能率は最悪。脱出すれば良いとは言うものの、家1軒分の家財道具を荷造りしようとすると相当の手間ではあった。次があった時に備えて、引っ越し魔法を開発しておこうと決意しないではいられない。
 ダラダラとそんな作業をやっていると、余計なことも考えてもしまう。例えば今日やって来た聖女のこと。
 再び王都の方に視線を向ければ、裾野の街のあちこちから大きな火の手が上がっている。陣地がやられたのか、心なしか機銃の砲火も減ったように見える。
 あいつのパン屋とやらは、多分あの裾野の街にある。まだ無事だろうか。神聖魔法が発動している様子はないが。そんな取り留めのないことを考えてしまう。
 自分の身体を差し出してでもという、あの熱意。彼女の顔は、彼の瞼の裏に焼き付いていた。

「ああもう、面倒臭えなあ」

 自棄っぱちのように言うと、彼は冷蔵庫を開けた。いつも飲んでる乳酸菌飲料がまだ1本残っている。彼はそれを手に取ると、一口で飲み干して容器を放った。



『早く火を消して!!』
『消防隊は、来れないのか!?』
『魔物の吐いた炎は魔力を帯びている。水なんかかけても無駄だ。魔法素材を含んだ消火剤じゃないと』
『もう下町には消火剤の蓄えがないぞ!!』
 王宮の地下。まるで牢獄のような石造りの隠し部屋。仰々しい聖女のドレスに身を包んだ聖女カノは、蹲って顔を伏せていた。
 滅亡の日がいつなのかということについては、具体的な神託がなかった。識者の予想ではまだ先という意見が多かったこともあり、この日カノは普通に実家で過ごしていた。そして夜になり、魔物の襲来が始まると王宮へと連れ出されたのだ。
 拒否権なんか彼女にはない。自分の家や家族が心配で離れたくはなかったが、聖女としての務めを果たすことが求められる。例えその能力がなかったとしても。
 王宮の兵士に連れられて街を走る最中、その喧騒が彼女の頭にこびり付いて離れない。多くの家が燃えていた。怪我人もいた。誰もどうすることも出来ないでいた。
 結局王宮についても何もできず、ただ無駄に衣装だけ着替させられて、避難という名目でこんな部屋に押し込められているだけ。
 もし自分がちゃんと神聖魔法を使えたなら、もっと被害を抑えられたし皆を救うこともできた。そう思わないではいられない。

「何でこんな魔法も使えない下町の小娘が聖女なんだ」

 カノの護衛として部屋にいた2人の兵士の片方が、憎々しげに吐き捨てた。やめろともう片方の兵士が嗜めるが、しかし彼も同じ意見であることが伝わってくる声音だった。
 むしろ自分だって同じように思う。何故自分なんかが聖女なのか。カノはその思いを口に出しそうになる。もう何度も自問した。答えはない。だが、やるしかないし、やらなければいけない。そういう気持ちだけが、ぐるぐると空転している。
 バンッと、その時部屋の扉が破られた。飛び込んでくる魔物ベドリス。咄嗟に護衛の1人がサーベルを抜刀し、その鋭い爪を受け止めた。

「ぐはぁあ!!」

 だが鍔迫り合いは一瞬。彼は魔物が口から吐いた黒い炎を受けて、その場に転がる。床も石造りなので延焼はないが、その兵士はあっという間に全身に炎が回った。苦しげにうめき声をあげる。

「クソッ!」

 その隙にもう1人の兵士はショットガンを構えていた。至近距離から放たれる散弾がその胸を抉ると、魔物はよろめき怯んだ。効果を認めて、そのまま兵士は更に2射目、3射目を命中させ追い込んでいく。
 だが、魔物は逆上するかの如く一際大きな鳴き声を上げてる。兵士へと飛び掛かり、ショットガンをはたき落とした。
 彼は更にサーベルを抜いて応戦しようとするが、今の攻撃で腕に大きな引っ掻き傷を負ってしまっている。

「あ、ぐ、げぇぇえ」

 兵士は膝を付くと夥しい量の血を吐いた。ベドリスの爪には猛毒がある。傷を付けられてしまえば、少なくとも戦闘継続は不可能だ。そのまま倒れ伏し痙攣している。

「あっ……」

 カノの目にはほんの一瞬の出来事だった。しかし厳然たる事実として彼女の目に映る。弱っている様子はあるものの未だ健在な魔物。そして、まもなく消えようとする2つの命。
 意を決し、彼女は掌を魔物へと向ける。最近毎日受けている魔法の講義を必死に思い出す。
 曰く魔法に必要なのは回路である。大気中に存在する魔力をコントロールし、魔力走図を描くことであらゆる現象を引き起こす。掌を向けるのはその指向性を、呪文を唱えるのはその効率をそれぞれ補完し補助する。何度も習い、何度も練習した。

「ベラストレラ!!」

 何も起こらない。万感の思いを込めて、再び唱えても同じ。あまりにも何事も起こらなさすぎて、いっそ魔物も悠長に様子見をしてくれているほどだ。
 カノの唇は震えていた。弱々しく顔を歪ませて、目を伏せる。あまりの無力感に打ち砕かれていた。間もなくにでも、堰を切ったように涙が溢れるだろう。

「うっ」

 その時彼女があげた呻きは、しかし嗚咽ではなかった。驚愕したように顔を歪める。びくりと身体が跳ねて、それからぶるぶると震える。まるで彼女の身体がゴムでできた着ぐるみか何かで、その中に誰かが入って来ているかのような動きだった。
 そうして伏せた顔を彼女が上げると、その眼光にはそれまでなかった鋭さがあった。そこには確かに殺気があった。それでいて余裕を湛えるニヤけた表情。咄嗟に魔物は雄叫びを上げ、彼女へ飛びかかろうとする。

「『無辜なる人々の願いベラス・トレラ』」
 
 呟くように唱えられた神聖魔法。彼女の指先から迸る小さな光弾が、魔物の胴体に大穴を開けた。上半身と下半身が分かたれることとなった魔物ベドリスは、そのまま何が起きたのかすらわかっていなさそうな表情のまま朽ちていく。

「なんだ。詠唱に規模節がないから調節できないのかと思ったが、普通に小さくも撃てるじゃないか」

 そんなどうでもいいような魔法論評を口にするカノ。それから倒れ伏した2人の兵士に初めて気がついたかのような顔をする。

「『正しき者へ与える神の恵みクルナン・ネス・バルドーラ』」

 彼女が唱えたのは回復の神聖魔法だ。傷の修復、スタミナの復元、状態異常の除去に加えて耐性付与と能力バフまでかかる。
 その効果により、今まで彼らの命を脅かしていた黒い炎も猛毒も、まるで最初からなかったと勘違いしそうになるほど綺麗さっぱり消え去った。2人とも夢でも見たかのようにキョトンとしている。

「ふむ。言われてみればこの身体、確かに魔力はスカスカだな。非魔法使いならこんなもんじゃないかという気もするが。まあ、神聖魔法は神霊から力を得ている都合上、術者の魔力はいらないから問題はない。憑依魔法も俺からの魔力供給で成立してるから支障はない。ただ、この状態で普通の魔法を使うならこの身体の魔力が必要になる。おそらく神聖魔法以外は碌なものは使えないだろう」

 混乱している兵士2人には目もくれず、カノは自分の身体をペタペタと触りながら、ブツブツとそんな事を言っていた。やがて自分の胴回りに手をやると、ひどく不服気な顔になる。

「ていうか苦し! 何これ? 締めすぎだろこんなの。馬鹿か」

 唐突にコルセットにキレ出すカノ。パンパンと叩いたりぐいぐいと引っ張ったりして、何とかその拘束から逃れようとする。

「これどうやって脱ぐんだよ。ああもう、良いや。切ってやろう。こういう形式ばってて意味のないもの大っ嫌いだ」

 忌々し気に吐き捨てる。自分が聖女としての役割を果せていないという気後れがあったものの、まるでお姫様にでもなったかのような可憐なドレスを着られることを正直内心喜んでいた少女とは思えない表情だ。
 彼女の爪の先に光の刃が現われる。小さな小さな切断魔法だ。そうやって無理矢理、彼女は自分が着ていたドレスを解体して剝ぎ取ってしまった。兵士の男たちが眼前にいることもまったく意に介さない。
 そうして、下に着ていたロングのインナーキャミソールだけを纏った姿となる。履いていたヒールも、邪魔だと言わんばかりに蹴飛ばしてしまう。それでようやく煩わしいものから解放されたのか、満足したような表情を見せた。

「ほう。やっぱり重いな」

 慣れ親しんだ自分の身体の事だというのに、さも初めて気が付いたかのように感心しながら、彼女はその豊満な胸の膨らみを手で持ち上げている。そして嫌らしい感じに鼻の下を伸ばしては、にへらっと笑う。

「柔らかいな。なんか、安心する」

 そう言って、カノはしばらく自分のおっぱいをわしわしと揉みしだいていた。口の端からよだれを垂らしながら。心底気持ちよさそうに。
 突然そんな痴態を披露し始めた聖女に、兵士たちはただ困惑の眼差しを向けるしかなかった。そしてその視線にカノも気付いたような表情をする。未だ鳴り止まぬ戦火の怒号や地鳴りもその耳へと届く。

「チッ、流石にやってる場合じゃないか。ていうかこいつ下にパンツしか履いてないじゃん。ズボンがどっかにないか? ないか。まあ良いや。この服は裾が長いから、スカートみたいなもんだ。パンツが見えなきゃ別に良いだろ。女だし」

 ぶつくさとそんな事を独り言ちては、彼女は裸足のままぺたぺたと歩いて隠し部屋を後にするのだった。



「中町南方面は被害甚大。防衛に当たっていた第4戦隊との連絡は未だ取れず、援護に向かった第8、第11戦隊からの報告から見ても壊滅したものと思われます。魔物の群れも他方面からの侵攻を諦め、王都南側へと集結しようとする動きが観測されています。南側陣地は既にほぼ失われておりますので、この侵攻を止めることは困難です。間もなくこの王宮が魔物の総攻撃を受けることとなるでしょう。
 従いまして、国王陛下並びに王妃殿下、各大臣方々は王宮より脱出し、北離宮へと退避いただきたい。我ら王属魔法戦隊及び国王軍は総力を結集し、この王宮にて魔物の群れを迎え撃ち、必ずやこれを打ち払ってみせましょう」

 玉座の間にて、緊迫した面持ちで戦況を伝えるのは、王属魔法戦隊戦隊長にして国王軍軍隊長を努める男ドリョだ。すなわちこの国の戦力のトップである。

「わかった。信頼しているぞ」

「貴方も一緒に来るのでしょう?」

 神妙な面持ちで頷く王と、不安げにドリョの顔を見る王妃。どちらも若くまだ30代前半だ。およそ彼らが物心付いて以来この国にこれほど緊迫した状況はなく、その前時代の乱世を生き抜いた中老の戦隊長を頼る他はなかった。

「私は王宮に残り全軍の指揮を取ります。陛下と殿下の護衛はヤルとセンが務めます。いずれ私の後継となる優秀な男たちです。どうか御安心ください」

「そんな。王国最強である貴方の代わりなど」

 王妃は憚らず取り乱す。困惑しながらドリョが彼女を嗜めようとしたその瞬間、玉座の間の壁が轟音と共に吹き飛んだ。大穴が穿たれ、外が見える。
 そこから顔を覗かせたのは、人の胴体と鳥の頭を持つ魔物。しかしそこら中を徘徊するベドリスではない。その上位種だ。
 そいつはおよそ人間の5倍はある巨大な体躯を誇り、胴体と頭が3つある。都合6本の腕と6枚の翼を持ち、そして頑強な下半身からは巨大な尻尾が生えている。
 毒旋鎧どくせんがいベドリオウス。一度現れれば小さな街であれば滅ぶ、災害級と呼ばれるクラスの魔物だ。
 その口からドス黒い炎が放たれる。突然の襲撃に国王以下要人達が半ばパニックとなる中、ドリョの傍らに控えていた2人の男が前に出る。魔法障壁を展開し、汚れた炎を跳ね除ける。その間にドリョは詠唱を始めていた。

「『贄と墜ちる黒鉄の腕 せめぎ合う忘却の轍 迷いの森はとこしえに 凱歌を弔い亡者へ下る 泡沫の宴を歌いて奪う 疑い討たぬうたた寝の乳母 半旗を断ちて海へと流れよ』『轟炎魔法』『満月浄来』!!」

 迸る炎が螺旋を描き、槍のようにベドリオウスの3つある上半身を丸ごと穿ち、焼き尽くす。
 一撃で敵を屠るその姿は、俄かにその場の面々の表情を明るくした。これなら勝てる。そういう希望が伝播していく。
 だがそれもつかぬ間のことだった。崩れ落ちるベドリオウスの後ろから、更に魔物がなだれ込んで来る。同じくベドリオウス。それが3体も。その光景に、ドリョも表情を険しくする。

「戦隊長の全詠唱かつ最大規模指定の轟炎魔法は、災害級の魔物を一発で堕とすのか。流石、とんでもない威力してんな」

 素直に感心したようでありながら、品定めでもするかのような不遜な物言い。それが、この緊迫した場にはまったく似つかわしくない少女の声音で響く。
 そしてふわりと、その声の主である聖女カノが降り立つ。緩い跳躍魔法を使っているようで、妖精の如くふわふわとした重力に縛られない軽い足取りだ。

「『無辜なる人々の願いベラス・トレラ』」

 そして事もなげに唱える神聖魔法。その光の奔流は、先程の轟炎魔法よりも更に圧倒的な威光を放つ。3体のベドリオウスをまとめて飲み込み、残骸すら残さない程に消し飛ばして見せた。
 それからカノは、魔物が空けた壁の大穴の方へと歩を進めた。そこから外を眺めると、ちょうど王都南方面が一望出来る。火の手が上がる中町と最早焦土と言えるほど破壊し尽くされた下町、そして上空に集結する魔物の群れが目に入る。

「集まってくれるのは楽で良い。あれで残りはほぼ全部だろ。もう少し強いのが要るかと思ったが、あの程度なら『下級神聖魔法ベラス・トレラ』で十分だ」

 そして唱えられる神聖魔法。その規模は先程のものを更に越え、200、300といるベドリスをまとめて消滅させる。数十のベドリオウスもその中には含まれていたが、まったく問題にはしなかった。
 空に平穏が戻る。あまりにも呆気ない。それ以上に、聖女の力の規格外さがまざまざと見せつけられた。誰もが言葉を失っている。
 一方当の聖女はひどくつまらなそうな顔をしている。やがて踵を返すと、玉座へと向かいそのまま腰を下ろした。それだけで十分に不敬だが、膝を立てた胡座の姿勢で頬杖まで付いている。睥睨するかのような視線は、あまりにも態度が悪い。

「中途半端なんだお前ら。あんな部屋に適当に放置してたってことは、聖女になんか期待してなかったって事だろ。どうせ取るに足りない下町の小娘だ。だったらこんなところに引っ張り出さず、家族の所にでも置いといてやれば良かったんだ」

 視界の先に国王を捉えながら、しかし別に誰も見てはいないただのボヤきのようにカノは言う。

「こいつには夢があるらしいぜ。お国の都合で邪魔してやるんじゃねえよ。国を守るのはあんたらの仕事だろう。寄ってたかって、泣くほど追い詰めやがって。ま、俺にはどうでも良いことだけどな」

 それだけ言うと、まるで糸でも切れたみたいにコクリと彼女の頭が下がった。そうして、憑き物でも落ちたように曇りなき眼をパチパチさせている。

「えっ?」

 その視界に映るのは国王、王妃、戦隊長を初めとしたとにかく偉い人達ばかり。そんな人たちの視線がすべて自分に向いている。

「え? え?」

 翻って自分の格好が下着姿同然であることに今更羞恥を覚えたような反応を見せる。膝を立てていたせいでパンツもガッツリ見えている。咄嗟に裾を引っ張って、それだけでも隠そうとする。

「ふえぇえ!?」

 そしてようやく、自分が座っているのがなんと玉座であるという畏れ多さも理解できたようで、ただただあわあわとし始める。
 突然豹変した聖女の態度に、その場にいる誰もが呆気に取られるしかなかった。

 こうして、この未曽有の魔物の襲撃は聖女カノーネスラントにより無事打ち払われた。滅亡の日、その1日目を乗り越えたのだ。

(1) 偽物の聖女 完





 

 


 
 
 
 
 

 
 

>>前話

 ウェスターが聖女に憑依してから10日が経った。
 本日は快晴。それでいて気温は高過ぎず、程良く爽やかな風が吹く良い日だ。
 彼は丘の上の自宅で、1人安楽椅子に腰掛けて休んでいた。雨戸が半分閉まっていて、部屋の中は暗い。瞳を開けたまま動かない彼は、まるで家具の1つであるかのようだった。
 不意にドアがノックされる。ウェスターは訝しんだ。来客の予定も、心当たりもない。あるとすれば、彼がいつも飲んでる乳酸菌飲料『トルクヤ』の配達員の男、ベノ・グルアくらいだろう。
 だが、そうであるなら勝手に入って来て勝手に商品を置いて、あまつさえ勝手に財布から代金を抜いて帰るだろう。気安い間柄だ。
 だからウェスターは居留守を決め込むことにした。わざわざこんな町外れの家を訪ねて来るなんて、どうせ碌な用事でもないだろうと。

「ごめんくださーい。ウェスターさんのお宅でしょうかー」

 しかしドアは開かれた。鍵はかけていなかった。恐々としたか細い声が家の中に流れ込んでくる。
 それは栗色の長い髪の少女だった。顔を隠すように、白い花柄のほっかむりをしている。
 彼女はきょろきょろと部屋の中を見回すと、留守だと判断したような顔をして戸を閉めようとした。だが、ウェスターの存在に気付いて目を丸くする。

「あなたが、ウェスターさんですか?」

 そう問いかけながら彼女は中へと入ってくる。そして頭巾を取って、まっすぐに彼の方を見た。あどけなさは残るが、強い芯を持っていることを感じさせる精悍な表情だ。

「突然お邪魔してすみません。私はカノーネスラント・シドンといいます。普通カノと呼ばれます。一応、聖女です」

 その名乗りを聞いて、初めてウェスターは目の前にいるのが先日自分が憑依した聖女だと気が付いた。どこかで見たことがある顔だなとしか思っていなかった。
 彼女の装いはクリー厶色の涼し気なワンピースだ。きっとその裾を捲り上げてみれば、あの時見たような下着を今日も身に着けているのだろう。その胸のあたりを押し上げる二つの膨らみの中には、あの可愛らしい乳首が隠れているのだ。
 自らの記憶の中にある映像が、ウェスターには彼女の立ち姿にダブって見えた。ちょっと興奮して、少し元気が出てくる。

「単刀直入に聞きます。貴方は私に憑依しましたか?」

「驚いたな」

 カノと名乗った少女の問いに対して、ウェスターは率直な感想を漏らした。彼の作った憑依魔法は、憑依対象者に何の情報も残さないものになっている。王属魔法戦隊の連中の前からもさっさと逃げたので、流石にあの一瞬で聖女が誰かに憑依されていることを見破れるような魔法使いはいないと思っていた。
 肯定としか受け取れない彼の返事を受けて、彼女は表情を少し険しくする。それは見つけた犯人に対する憎悪と、犯人を見つけたことに対する安堵の両方を含んでいた。

「どうしてそんなことしたんですか?」

「興味」

「き、興味って……。貴方があんなことしたせいで、あれから私は聖女じゃなくてただの痴女って王宮の人達から陰口言われてるんですよ! 私は何も覚えてないのに。どう考えても悪の魔法使いに身体を乗っ取られたとしか思えませんって言っても、憑依魔法なんか存在しないし、オリジナルで作り出そうとしても魂や精神の領域は超高度だからそんなの出来っこないって笑われて。悔しくて……。その時あなたの噂を聞きました。孤高の天才魔法使いウェスター。そんなスゴい人ならひょっとしてと思ったんです」

 まくし立てる彼女の言葉をウェスターは黙って聞いていた。なるほど自分にたどり着いたのは、つまりは当てずっぽうなのだなと得心する。
 さりとて、経緯はともあれ救国の聖女の身体で遊んだことが本人にバレたわけだ。通報されるだろうなとウェスターは思った。御都合主義で何でもありで有名な魔法濫用罪を科せられれば死刑もあるかもというところまで思考が至る。
 しかし、立たずまいを正したカノの口から続いて出た言葉は、彼の想像をまったく超えていた。

「お願いがあります。私の代わりに聖女の務めを果たしていただけませんか」

 そう言って彼女は深々と頭を下げた。その意図を汲み取れず、ウェスターはただじっと彼女を見る。

「私は聖女の神聖魔法が使えません。でもあなたが私に憑依した時、その時の私は神聖魔法が使えたと聞きました。だから、滅亡の日が来た時、また私に憑依して、私の代わりに聖女としてこの国を守ってください」

 顔を伏せたまま言う彼女の声は震えていた。ワンピースの裾をきゅっと握り締めている。自らの身体を自分勝手に弄んだ者に対して、再び自らその身体を明け渡すということに対する屈辱や恐怖が滲んでいた。
 ただ、ウェスターにとっての関心は、彼女が神聖魔法を使えないという事柄についてだった。天才である彼にとっては児戯に等しいが、あれは普通の魔法使いにとってもやや難程度の難易度であるはずだったからだ。

「私は、今まで魔法の勉強なんかしたことがありませんし、もちろん魔法を使ったこともありません。それなのに、突然お前が聖女であるという神託があったとか言われて聖女に祀り上げられて。魔法を教えてもらってはいますけど、全然出来なくて……。こんなのが救国の聖女で大丈夫かって、直接は言われなくても王宮の方は皆そんな顔してて」

 俯いたまま、カノの独白が続く。その言葉は、まるで突然降ってきた聖女という重責に押し潰されて染み出した血のようだ。

「そうだ、あなた私に憑依した時ブラを外してましたよね。何がしたかったのか知りませんけど。その時に神聖魔法を使ってたもんだから、私が神聖魔法を使えないのは下着が合ってないからじゃないかとか言われて、物凄い精密に採寸したオーダーメイドの下着を作って貰えました。着心地良いですよ」

 嘲る。自暴自棄な物言いだった。そこにしばし沈黙が訪れる。ウェスターは何も言わない。カノの方は唇を噛んで、ヤケになってはいけないと自らに言い聞かせているかのような表情をする。

「私には夢があります。私の家は王都で100年続く老舗のパン屋です。お父さんやおじいちゃんが守って来た味を、私が継ぎたい。それ以前に! 王都には家族も友達もいます。滅亡なんかさせません。そのためなら、私、我慢しますから……。お願いします。私の代わりに、聖女としてこの国を救ってください!!」

 魂の奥底からの想いが彼女の喉を震わせているのだろう。彼女が真剣であることは、ウェスターにも理解できた。
 しかし、生憎と彼の心にこの場でその熱を伝えることは出来なかった。

「やだ」

 たったそれだけの端的な拒否がなされる。ある意味断られるだなんてまったく考えてもいなかったカノは、驚きのあまりバッと顔を上げて目を見開いた。

「え、そんな、どうして。お願いします! 私の胸が触りたいなら、触っても良いですから。ちょっとだけなら……。パンツが見たいならスカート捲っても良いですから。ほ、他の人には見えないように。だから、お願いします!」

 なりふり構っている余裕がなかった。その実憑依された時の自分の行動を周りから聞いた時、カノは犯人は女の子の身体を触りたい変態野郎に違いないと考えた。
 だからこそ、単純に身体をダシにすれば良いと考えていた。簡単なことではないが、簡単なことだと。
 自分が知らないところで自分の身体を他人が、それも異性が自由に動かす。普通他人が知らないような知られたくないデリケートなところも興味本位で覗き見されて、それが男の勝手な欲を満たす。見せ物か玩具みたいだ。それはあまりにおぞましく、想像するだけで寒気がした。
 だが、相手の望みがわかっている以上、もう自分がそれを受け入れられるか、耐えられるかの問題でしかない。覚悟をすれば良いだけだとカノは思っていた。
 そして覚悟をしてきた。自分のこの身体が、他人の意思に服して動かされること。触られること。見られること。全部飲み込んでここに来た。
 しかし、その目論見は外れた。彼女の必死の訴えも虚しく、ウェスターには特段の反応は見られない。

「めんどう」

「面倒って……」

 あまりにも身も蓋もない回答に、カノは絶句する。そして彼女が次の言葉を絞り出す前に、彼は眠るように目を閉じてしまう。
 あまりにも取り付く島がない。交渉の決裂を察したカノは、ただ捨て台詞を吐くしか出来ることがなかった。

「この、ムッツリスケベ!!」
 
 
 
 

(1) 偽物の聖女

 およそ物質的にはほとんど満たされたこの世界。残る問題と言えば魔法と魔物の存在だろう。
 とある王国の都の外れ。草原にある小高い丘の上に、小さな丸太小屋がポツンと建っていた。そこには1人の少年が暮らしている。彼の名はウェスターという。

「やっぱり今日は調子が良い。これで憑依魔法の完成だ」

 そう言って彼は得意げに術式や魔法陣の描かれた紙を掲げてみせる。それから小瓶状のプラスチック容器に入った、薄だいだい色の乳酸菌飲料を一口で煽った。
 彼は魔法使いだ。天才であり異端児。彼ほどの才覚があれば、民間企業だろうと研究機関だろうと引く手は数多。むしろ王属魔法戦隊のトップ、すなわちこの国で最も優れた魔法使いが就くポジションすら手が届くだろう程である。
 しかし彼はそういうことには関心がない。こんな人里離れたところでふらふらと、来る日も来る日も趣味の魔法研究をして過ごしている。
 そうして今日新たに完成させたのが憑依魔法だ。彼の理論によれば、使用者の精神を他人の身体へと飛ばすことで、その者に成り代わってその身体を動かすことができる。

『本日午前に、王宮にて国王陛下より神託の聖女へ救国の錫杖の授与式が執り行われました』

 その時点けっぱなしになっていたテレビで、ちょうどお昼のニュースが始まった。ふと見れば、年の頃はウェスターと同じく十六、七位に見える少女が、恭しく国王から杖を受け取る様が写し出されていた。緊張しているのか、綺羅びやかで仰々しい聖女の装束から浮いて見えるほど、その表情は硬い。

「『破滅の予言と、それを救済する神託の聖女』ねえ。お国の方は大変なことで」

 さして興味もなさげにウェスターはテレビから視線を外した。どうやらこの国は近々魔物の襲撃にあって滅ぶらしい。そういう予言がもたらされた。そしてその運命を打ち払う聖女が現れると。世界の歴史において何度か記録されているイベントだが、この国にもお鉢が回ってきたということだろう。
 だが彼はそんなことに興味はない。この国が滅ぶなら外国に脱出するだけ。聖女だか何だか知らないが勝手にやってれば良い。そんなニュースなんかよりも、歴史を題材にしたドラマでも映してくれた方がよっぽど面白い。
 そう思っていたが、ふと思いついた事もある。
 聖女は神聖魔法が使えるという。ありとあらゆる魔法に精通するウェスターであるが、聖女のみが発動することが出来る神聖魔法までは使えない。そもそもどんなものなのかも知らない。旺盛な知識欲を持つ彼だが、流石に自分で使えもしない魔法のことまで調べようという気は起きなかった。
 そこでこの憑依魔法だ。これで聖女に憑依すれば、おそらく神聖魔法も使える。どうせ憑依魔法自体も試してみないといけないところではあったのだ。せっかくなら聖女に憑依してみようと思い立つ。
 そうと決まれば善は急げだといきり立つ。早速ウェスターは憑依魔法を唱える。聖女はカノーネスラントという名前らしい。顔もさっきテレビで見た。それだけわかれば、他の材料は必要ない。今の居場所すら関係ない。ただ彼は瞳を閉じる。


 湿度を含んだ不快指数の高めなぬ、めるような風が頬に触れる。ウェスターが眼を開いたとき、彼は屋外にいた。地面は芝生で、青空が見える。視界の両脇にはレンガ造りの高い壁がそびえている。中庭と形容するのが一番しっくりくるだろう場所で立っていた。

「カノ? どうしました?」

 傍らに立っていた女性にそう声をかけられる。だが、そんなことより気になったのは、目の前の譜面台の上に広げられた魔法教書だ。一目見てそれが神聖魔法についての記載であることを看破した彼は、食い付くように読み込んでいく。

「『無辜なる人々の願いベラス・トレラ』」

  それを唱えた瞬間、空中で白き光の爆発が巻き起こる。およそ邪悪なるものがそれに触れれば影すら残さず消滅することになるだろう圧倒的な威力を有することを、誰が見たとしても本能で理解できるほどの威光。それが人型魔物であれば100体以上をまとめて仕留められる規模で発現した。
 これに匹敵する魔法となると、それこそエリート中のエリートである王属魔法戦隊のメンバーがそれなりの時間をかけて詠唱した大魔法クラスになる。それだけのものをいとも簡単に顕現させた。流石は聖女にのみ許された神聖魔法と言ったところだろう。先ほど声をかけてきた女性も、突然放たれたその魔法を見て腰を抜かしている。

「しょうもな!!」

 しかし彼は、心の底からそう叫んだ。確かに圧倒的な攻撃性能を持つ魔法だった。だが、聖女の身体を触媒に指定しているだけで、仕組み自体は単純なものだ。少なくとも彼にとっては一瞥すれば即使える程度のもの。
 ただ力をぶつけるだけの攻撃性の魔法というのも面白くない。どうせなら万病を治癒するとか、時を戻すとかそういう奇跡じみたものを期待した。目の前の教書は読破したが、全部同じだ。こんなものでは彼の期待に応えるには程遠い。
 ウェスターはため息をついて、肩を落とす。そうして目に映ったのは、地味な黒いワンピースを纏った女性の肉体。憑依した聖女の身体だ。彼女の栗色の長い髪の毛がはらりと視界の中に入って来る。

「こんなことなら、この身体の方がよっぽど興味深いぜ」

 そう言うと彼は、自らの手を胸へと当てがった。女性特有の膨らみをその掌で包み込む。そうしてほうほうと感心したような表情をしては、感触を確かめるように揉みしだいた。

「なるほどおっぱいだ。確かに自分の胸が膨らんでいるのだな」

 感嘆を漏らすと、彼は胸元を引っ張ってその中を覗き込んだ。胸の皮膚が山のように盛り上がっていて、それをブラジャーが抱え込むように支えている。男性とはまるで違う女性らしい構造になっていることを自分の目で見て確認する。
 更に彼は手を胸元から無理矢理中に突っ込んで、左の乳房からブラのカップを外した。乳首の形を見たかったからだ。そうしてぴょんと突き出た可愛らしい乳頭をみとめて、ほくそ笑む。興味が満たされて大層嬉しそう。
 それならば当然こちらもと言わんばかりに、今度はワンピースの裾を掴んで捲っていく。こんな所で用でも足すつもりとしか思えないほど。白いパンティを丸出しにして、それをしげしげと覗き込む。そこには男根の膨らみはなく、なだらかな丘陵が広がっているだけだ。

「やっぱり付いてない。知識で知ってるし感覚として無いこともわかっていたけど、やっぱりちょっと信じ難い。こうやって見てもまだ実感がない。生まれたときから付いてるのが当たり前のものだったからな」

 しみじみとそんな事を言いながら、彼はそのすっきりとした股間を丸出しのまま手でなぞっていく。触診でもするかのよう手付きだ。
 その実、ウェスターは医学にも精通している。女性の身体の構造なんか知っているし、教書で乳房や女性器の写真も見たことがある。ただ自らの経験を重視するが故に、本物の女の身体を眺める機会があるなら実物を観察したいという思いが強く出る。
 すなわち、この一連の行動は彼の知識欲から来たものだった。だが、彼だって一応は十代の男子である。当然同年代の女子の、こんなあられのない姿をまじまじと見ていたら、性欲の少しくらいは湧いてくる。観察などではなく、ただ本能的な肉欲に基づいてこの身体を触りたくなってくる。

「おっぱいを揉むと癒やされるらしいが、ふむ……。なんかくすぐったいな」

 何処か難しげな表情をしながら、彼は自分の乳房を丹念に揉んでいく。胸から伸びた柔らかい脂肪の塊が捏ねられる感触も堪能する。それだけだと、だからどうしたといった感想だったが、カップがズレている左の乳首が服の素地と擦れて、それがどうにもこそばゆく思われた。

「な!? せ、聖女よ! いったい何をやっているんだ!?」

 その時背後からそんな声が投げかけられた。黒いローブをまとった壮年の男が6、7人程、この中庭のような場所へとなだれ込んで来たところだ。
 そこで聖女がパンツを丸出しのまま自分の胸を嬉しそうに揉んでいるのを目の当たりにしたのだ。度肝も抜かれる。目のやり場にも困っているようだ。
 しかし、これは困ったことになったなと彼は思った。正直何も考えていなかったウェスターだが、救国の聖女サマの身体を乗っ取って遊んでいることがバレたら、その場で処刑されてもおかしくはないのではないか。
 まして、やって来た黒ローブの男たちは王属魔法戦隊の部隊長クラスだ。憑依魔法はウェスターのオリジナルだが、聖女に他人の精神が入り込んでいることを看破し彼の精神をこの場で捕縛する程度のことは即興でできるだろうレベルの魔法使い達だ。
 それならばさっさと逃げる方が良い。女体に対する性的な欲求は全然満たされてはいないが、当初の目的だった神聖魔法は見れた。女の身体ということなら、別に聖女に拘る必要はない。
 後ろ髪引かれる思いはあったが、ウェスターはさっさと憑依を解除して、身の安全を確保したのだった。

>>次話
 


 

 
 

 それは本当に突然のことだった。ある日僕のスマホに「催眠アプリ」がインストールされていた。インストールした覚えもなかったから、ウイルスの類だと思ってすぐ消そうとしたけど、何故かアンインストールすることができなかった。ネットで調べてもエロ本しか出てこない。結局何もわからなくて、その時は途方に暮れたな。
 アプリによると、その画面を見せた人間の精神を歪めて、命令した通りに人格を作り変えることができるという説明がされていた。使用者の思考を読み取るので、その人格は使用者の願望を正確に実現したものになると。
 笑ったさ。正直なところ、バカバカしいと思った。信じる信じない以前に、じゃあ例えばこれを使ってエロ本よろしく女の子を性奴隷にでもしたとして、そんなもの果たして楽しいだろうかと思った。そんな操り人形との一人遊びなんて、虚しくて惨めになるだけだ。
 だからこんなもの使う気なんかなかった。ただ、1つだけ心に引っかかったのは由香奈のことだ。すぐ近所に住んでいる僕の幼馴染の女の子。昔は仲が良くて、毎日のように一緒に遊んでいた。
 中学に上がるとそれぞれ同性の友達で遊ぶことが増えて、段々関係が薄くなっていった。それだけなら自然な思春期の変化だったけど、高校に上がって暫くした頃になると、彼女は明らかに変わってしまった。
 端的に言うとグレた。家族仲が悪そうだというのは昔から思っていた。それが原因かはわからないけど、家にあまり帰らなくなり何処へともなくと遊び歩くようになっていた。もちろん学校にもほとんど来ない。
 見ていられなかった。着崩した制服に短過ぎるスカート。ケバい化粧。染まった髪は手入れも悪くてヨレヨレだ。そんな彼女は、最早僕の知ってる由香奈と同一人物とは思えなかった。
 正直未来はないと思っていた。学校にも行かず無軌道な生活をしていて、それで将来幸せになれるとは到底思えなかった。そんなモラトリアムに価値はない。余計なお世話だったとしても、彼女を救いたいと思った。これは僕の真摯な気持ちだ。
 そんな自分の心からの声に従って、僕は由香奈に催眠アプリを見せた。そして「ちゃんとしろ」と命じたんだ。半信半疑ではあったものの、その効果は直ちに現れたよ。
 その時の彼女は呆けたような表情になると、そのまま意思を感じないようなふらふらとした足取りで自宅へと帰って行った。その明らかに尋常ならざる様子に、心配になったのを覚えている。
 でも次の日、由香奈は学校に来た。面食らったさ。髪も黒に染め直しているし、スカートも膝丈で制服もキレイに着ている。何より表情に覇気がある。自信に満ちたようなその姿は、何処からどう見ても品行方正な優等生だった。
 行動も変わった。授業に真面目に取り組んでいるのはもう当然で、学級委員やボランティア活動まで始めた。性格も明るく優しく前向きになっていて、みるみるうちに皆の人気者になってしまった。眩しすぎて、目が潰れそうになるほどの良い子だ。
 それに僕とも登下校を一緒にするようになった。通学路は一緒だから。他愛もない世間話をするだけだったけど、それでも邪気のない彼女の笑顔を見ていると昔を思い出した。久しぶりに由香奈が戻ってきたと思えた。
 嬉しかった。そもそも彼女にどうなって欲しいのかと聞かれたら、僕はうまく答えることは出来なかっただろう。不良じゃいけないという気持ちだけで、じゃあ何を求めているのかはイメージできていなかった。だけどその姿は、僕が理想とした彼女そのものだった。
 同時に恐怖もあった。ここまで人間を変えてしまうこの催眠アプリは、とんでもない力を持つものだ。きっと悪魔の力に違いない。そんなものを使ってしまった僕は、どんな代価を払わされてもおかしくないだろう。
 でも、それでも良いと思った。由香奈が救われたのなら。彼女の人格を変えてしまったという後ろめたさはある。それでも、この由香奈でいた方が、スレた生活を続けるよりもずっと良い人生がもたらされたと思う。それは彼女にとって幸せであるはず。僕は正しいことをした。そのためなら、僕は地獄に堕ちたっていい。
 それからひと月ぐらい経った頃だ。由香奈とサッカー部のキャプテンが付き合っているという噂を耳にしたのは。
 そのことについては、何の感情も湧かなかったように思う。ただ、ただそれから学校内で由香奈のことをずっと目で追うようになった。彼女が僕の視界から消えることに言いようのない不安のような感情を覚えていた。
 どうしてだろうか。話したことはないけど、サッカー部の部長さんの悪い話というのは聞いたことがない。むしろイケメンだし成績も良いし、更に性格まで男前らしい。うちの学校にはないけれど、ミスコン・ミスターコンがあれば間違いなく選ばれるだろうというような華のある人だという。もし本当にそんな人と由香奈が付き合い始めたのだとしたら、それは喜ばしいことだ。まさに彼女の幸せの第一歩じゃないか。
 それなのに何故か、僕の中からはどうしても笑顔が出てこなかった。心に、何か大きなものが引っかかっていた。
 このまま彼女は幸せになるだろう。でも、そのきっかけになった僕の存在は、彼女の思い出の中に残るのだろうか。ただの幼馴染。それだけが記憶されて、そしてすぐに忘れ去られてしまうんじゃないか。それがどうにもこうにも耐え難くて、怖かった。
 多くの事を望むつもりはなかった。むしろ僕の望みは既に叶っている。ただ、彼女からの気持ちが欲しかった。ほんの一言で良いから。ありがとうと言ってくれるだけでも僕は救われただろう。
 それは卑しい願いだっただろうか。卑しい願いだったかもしれない。最初は見返りなんか期待してはいなかったのに。それでも、そのほんの少しを僕は求めてしまった。
 衝動的に、再び彼女に催眠アプリを使った。、息が出来なほど胸が苦しくて、ようやく吐き出した言葉は「僕を見て」だった。
 彼女のことを、その将来を第一に真剣に想っていた人間として、どうか君に、僕のことを覚えていて欲しい。その一心だった。そして、ただそれだけで良かった。その瞳に、その心に僕という存在を映してくれるだけで。
「ああ、愛しています! 愛しています!! 私は一生、御主人様だけのものです!!」
 今、由香奈は僕の身体に馬乗りになって、そんな矯正を上げている。服なんか脱ぎ捨てた、生まれたままの姿で。乱れ狂いながら、騎乗位で僕のチンポを自分のナカに挿入している。自らの全身全霊を使って、愛おしげにそれに奉仕している。
 僕は腕で自分の視界を覆っていた。彼女の姿を直視できない。
 僕はこんな結末は望んでいない。これは代償か。何でこんなことになった、何でこんなことになったんだと、誰へともなく問いかけ続ける。
 答えを返してくれる人は誰もいない。
 

 

 とある高校。その裏にある林の前で、田中、杉本、川上という三人の男子がたむろしていた。基本的に誰も来ない所であり、適当に駄弁るには向いている場所だ。
 その日その林の中で、三人は不思議なものを見つけた。ごちゃごちゃとコードや電子機器のようなものが取り付けられた、どことなくサイバーな雰囲気のヘルメットのようなもの。正体はわからなかったが、ピクトグラムにより、どうやらこれを被ってスイッチを入れると、他人に意思を飛ばせるというような説明がされているようだった。テレパシーのようなものかなと、三人は理解した。
 そして田中が、面白がって実際にそれを被り、スイッチを入れてみたのだ。するとその瞬間、彼の表情が固まり、そのままばたりとその場に倒れ伏してしまった。
 その反応に、単なるおもちゃだと思っていた杉本と川上は狼狽えた。悪ふざけではなく、本当に田中は意識を失っている。想定外の出来事に、ただおたおたとすることしか出来なかった。
 そうしているうちに、三人の元に一人の女子生徒が走ってきた。三人のクラスの学級委員長を務めている娘だ。こんな校舎の裏に用事はないはずだし、スカートを派手にはためかせながら全力疾走してくるのは変な話だが、狼狽していた杉本と川上はそんなことを不思議に思うよりも、彼女に助けを求めたのだった。
「どうしよう委員長、なんか変なヘルメット被ったら田中が倒れちまった」
「見ろよこれすげえぞ」
 しかし委員長の返答は二人の想像と違った。会話がかみ合っていない。彼女は何故かドヤ顔をしながら、まるで自らの身体を二人に見せつけるかのように胸を張っていた。二人が訝しんでいると、更に委員長が言葉を続ける。
「俺が田中だよ。ヘルメットを被ったら幽体離脱しちゃってさ、それなら他人に取りついたりできるんじゃねと思って委員長に入ってみたら、マジで乗り移れちゃったんだよ」
「え、マジかよ。すごくねえそれ」
 田中を名乗る委員長の言葉に、杉本は素直に感心した様子だ。そして、本当に田中なんだろうなとか、女の身体ってどうなのとか、本当に付いてないんだぜとか、二人してきゃいきゃいとはしゃいだ。しかし、川上はというと口を紡いだまま。しばらくしてからようやく、重々しく口を開いた。
「何で委員長に憑依した?」
 川上のその問いに、杉本も気が付く。彼ら三年生の教室はここから遠い。適当な他人であれば、その辺に一年生でもいるはずだ。その理由に思い当たった杉本が、田中を茶化す。
「え、お前ひょっとして委員長のこと好きなのか」
「バカ、違げえよ」
「じゃあ何で委員長憑依したんだよ」
「た、たまたまだよ」
 そうやって杉本が田中をからかうが、川上の表情は硬いままだった。更には杉本を押しのけて、田中が憑依した委員長の肩に掴みかかる。更に重たい声音で言う。
「委員長の身体から出て行けよ」
 尋常な雰囲気出ないことに杉本は気付く。そして察する。川上は委員長が好きだったのだと。自分の好きな女子の身体が、他の男子に使われているのを見て良い気がするわけがない。そう思い、杉本も田中に委員長の身体を開放するように促した。しかし田中は、川上の手を振り払う。
「嫌だね。委員長は俺のだし」
「いや、お前のじゃねえよ」
「良いじゃねえか。どうせ委員長もお前のことなんか好きじゃねえよ」
「お前、委員長の顔で……」
 好きな女子の姿でそんなことを言われた川上は激高する。田中も田中で意固地になって、自らが委員長の所有権を有していることを誇示するかのように、その胸を揉んでみせる。そのまま掴み合いの喧嘩になりそうになって、慌てて杉本が間に入って仲裁した。
 それからしばらくの間、一人の女子を巡る二人の罵り合いが続く。ひとまず委員長の身体は開放し、それから田中と川上の二人は一人の女子を巡って殴り合いの大喧嘩を始めることになった。流石の杉本もこれには割って入れなかった。二人ともボロボロになった頃になってようやく、委員長に告白して白黒付けようという杉本の提案が受け入れられたのだった。
 そうして次の日。放課後。二人は委員長を校舎裏に呼び出した。そして二人して告白をする。果たしてどちらが選ばれるのか。返事を待つ間の、ほんの数秒しかないはずの時間は二人にとって永遠のように長く感じられた。
「いや、ゴメン。私付き合っている人がいるから。今日も校門で待ってもらってるから、私もう行くね」
 あっけない彼女の言葉。そして彼女は何の感傷すら感じさせることもなく、さっさとその場を後にしてしまう。
 取り残される二人。ただ無言で彼女の背中を見送り、そして顔を見合わせる。やがて川上は、傍らに置いていた自分の鞄に手をかけると、珍奇な意匠のヘルメットを取り出した。そして二人で頷き合うのだった。

このページのトップヘ